真のありがとうございます 

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 私のお祈りは、最初から大きい。小さい自分が祈っていない。大きい自分が全体のために祈っていた。
だから、元から我も無いし、小さい祈りではない。宇宙全体に、大きい光を循環させていた。
肉体の自分へ神さまの光を呼び込むような祈り方は全然してない。常に宇宙全体を光で包むように、循環させるように祈っていた。
自分のことは、一切考えないのが正しい生き方。いつも全体のことを考えるのがいい。

だから、本当に与え合うというのでも、人と人との与え合いは、大したことがない。
みんな、我のある業想念の持ったもの同士が与え合ったら、マイナスの交流。マイナスの増幅。与え合うのは、本心同志。
本心同志が、ありがとうございますを与え合う。この気持になった時に、プラスの交流になる。
同じ与え合いと言っても、形ではない。そんなちっぽけな形だったら、マイナスの増幅。与え合っているのと違う。
マイナスを与え合っているだけ。本心同志が、ありがとうございますって真の神さまを与え合う。
そしたら、本当のプラスの交流。我が消えて、本心が大きく輝いて出てくる。
だから、小さくならないこと。いつも本心の自分。本心のみんなって、相手にする。それで、真の神さまの与え合い。

我の自分が、我を無限に溜めた自分がお祈りできるようになるなんて、奇蹟の奇蹟、大奇蹟。
どれだけ助け続けてもらっているか、想像をはるかに絶する。
まず、自分のマイナス、無限のマイナスを半分とって、神さまは、波を合わしてきてくれている。
半分取って波を合わして、助け続けて、半分は、消し切ってくれる。また残りの残っているのを半分取って、消し続けてって、
その繰り返しで助け続ける。自分は、我なんか消してない。神さまが半分ずつ肩代わりし続けて、消し続けてくれて、
やっとお祈りしたい、お祈りしようという気持ちに変えてくる。

だから、本当の恩返しは、自分がそういう生き方をとるまでにならないと。
お祈りができるようにしようと思ったら、その人のマイナスを半分引き受けるくらいの覚悟がいる。
身代わりに業を背負って、地獄へ堕ちるくらいではない。半分、我を消す。その大きい力を神さまからもらうために、しっかりと祈る。
我を消す働きの方が、はるかに力がいる。

だから、真剣勝負になる。人の病気を治すのでも、病気の原因には、大きいマイナスの業がある。
その病気を治してあげたいって、業を引き受ける。場合によっては、自分が死ぬかもしれない。
だから、死ぬ覚悟で振り替えて、背負って、祈って消すのだけど、間違ったら死ぬ。
それを繰り返し繰り返し、祈り続けて、祈りの練習をして、自分を死に切る練習をする。そしたら、我が消える。
自分の我を消すため、縁者の我を消すため、人の我を消すため、みんな、こういうのをする。

そういう気持ちになったときは、すぐに我の無い自分に戻る。だから、立場を大きくすること。神さまの側に、愛の側に立つこと。
そしたら、神さまの力が必要なだけすっと流れ込んできて、助けてくれる。死ぬ覚悟を決めていても、死なない。さらに元気になる。
私は何万回、死に続けた。そのたびに、元気にしてもらった。何万回どころではない。
もういつも、死ぬために祈っているような感じだったから、死に切るために祈っていた。
人の病気を治すくらいだったら死なないけど、大きい業の振り替えなんて、いつもそう。

縁者の我でも色んな我が入ってくる。消してほしいから、どんどん入ってくる。その時その時、色んな我が出てくる。
だから、その我を全部死に切らないといけない。神さまに捧げて、死に切って消し切る。
いつも入ってくる我を全部消し切っていかないと、それを残したら、我の自分になる。自分一人の我を消したから終わりなのではない。
毎日毎日が真剣勝負。色んな我を消し切って、より新しい本心の自分に戻っていかないと。

だから、形の世界で何かするのが目的と違う。我を消すための支え合いのすがたをとるのが目的。
我を消してもらったら、全部プラスに置き換わる。何かをしてプラスに変えるのと違う。我を消したら、全部プラスに置き換わる。
一大循環の相象(すがた)は、プラスだけ。循環をよくしたらいいだけ。支え合いに生きたら、循環がよくなって、プラスが一杯になる。


(平成25年8月24日のお話 第2部A)