真のありがとうございます 

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 秘かにっていうのが大事。秘密の秘には、必ずってつく。密も秘かも必ずが、つく。本当に必要なものだけを与えないとダメ。
神さまの与え方がそう。絶対余計なものを与えてない。必要なだけ。
そうでないと、神さまの方が、プラスでも無限に無限に大きく持っているのに、全部与えたらいいと言って、バーッと全部与えたら、
どんなことになるかわからない。本当に必要なだけに絞り込んでもらえるから幸せなの。

だから、真の神さまは、絶対に正体を現さない。隠して隠して、隠れて隠れて。無限の彼方に隠れる。
それで、必要だったら出てくる。必要なところへ出て来てくれる。我を出すところへ絶対出てこられないのは、邪魔するから当然。
ほんのちょっとでも顔を出そうとしただけで、我が消えるのだから、我の世界を邪魔したらダメだから、出てこられない。

だから、我の世界から見たら、真の神さまは、本当に無限の無限の彼方。
真の神さまを身近に呼ぼうと思ったら、やっぱり、支え合いの気持ちになること。自分を絶対表に出さないくらいの気持ちにならないと。
だから、虚の世界でも、どこに、どれだけ真の神さまのすがたが降りているかって、やっぱり見抜かないと。
真の神さまのより大きく降りているところを活用しないと損をする。

真の支え合いと、単なる支え合いとは、意味が大きく違う。虚の世界の支え合いは、真の支え合いとは違う。
真の支え合いという意味は、真の神さまが出てこないとダメだから。だから、助け合う、協力し合う、そんな程度と違う。
本当に謙虚になって、自分が1番下積みになって、全体を支えようという気持ちにならないと。
虚の世界の助け合い、支え合いと言っても、お金持ちがみんなに施しをして、支えてあげている、みんなを支えている、これは違うの。
これは、虚栄心の塊。我の無い生き方でも何でもない。真の支え合いとは、雲泥の違いがある。
真の支え合いは、我を一切、無い状態にするためだから。神さまと同じ立場に立たないと。

だから、絶対自分を出したらダメ。宗教団体でも、組織を作ったら、真の神さまは降りない。我があるから。
自分の名前を出したらダメ。真の神さまから遠ざかる。虚の世界でも、高い古神道の神々は、絶対自分を出さない。
だから、真の神さまに近い。謙虚になっているから。

本当は、自分の力を見せたらダメ。隠れて隠れて、知らない間に助けないとダメ。どんなに能力があっても、それを見せたらダメ。
有名になったらダメ。自分の力を全部隠さないとダメだから、お芝居がいるくらい。アホみたいな、バカな真似をして、力を隠さないとダメ。

自分の我を消すためだったら、1番人の嫌がることをするのがいい。仕事でも、1番危険で、きつくて、汚い仕事。
人が絶対したくないことをするのがいい。我が消える。我を消すためだったら、1番しんどい仕事をしないと損。
そしたら、みんながそれを同じようにしてくれたら、自分が1番楽にしてもらう。だから、本当は、本心の世界の生き方はみんなそう。
自分のした無限倍を返してくれる。自分のした通りに返してくる。

自由というのも同じ。虚の世界で、みんながわかままな自由を発揮したら、自分の自由を全部奪われる。
自分の自由が一切消えて無くなる。でも、自分の自由を全体へ捧げ尽くして、全体へ絶対奉仕の生き方をとったら、
自分の自由を完全に無くしたから自由がないのとは違う。全体が、みんなが、同じように自由を捧げてきてくれたら、自分が1番自由になる。
自分を縛ってくるものが何一つ無い。無限倍の自由にして返ってくるから、全てが自由自在になる。本心の生き方は、そういう生き方。

自由だけではなく、全てにおいて、まず、与え尽くして、無限倍に返してもらう生き方。自分が支えようとしたら、無限倍の支えが来る。
この世で100人に支えてもらう自分に、まずなるのを目標にする。その代り、100人を支えようと、まず自分が実行しないとダメ。
少なくとも100人を支えようとしたら、100人が自分を支えようとしてくれるようになったら、大したもの。
この世だったら、もう大したもの。本心の生き方を本当に実行したような生き方。

でも、今の世の中、みんな、老後、孤独になって、一人になって、誰も助けてくれない人が一杯いる。それは、生き方を間違ったから。
能力がある時は、わがまま勝手に自分の能力を発揮しているけど、いつまでも努力や能力が発揮できるかというと、続くわけがない。
みんなの支えでできているのに、自分の力でなんて言っている方が間違い。支え合いを本当に目標にしないと、必ず孤立して、孤独に陥る。
だから、支え合いの仲間を大勢増やさないとダメ。そういう意味で、お祈りの支え合いをまずすること。
まず、お祈りの世界から支え合ってもらったら、形はすぐに整ってくる。みんなに支えてもらえるようになる。
だから、ありがとうございますも、全体へ与え尽くすありがとうございます。
真の神さまを全てに与え尽くすありがとうございますを実行する。やっぱり真祈りがいる。真祈りの練習。
そしたら、支え合いの心にすぐに戻る。
 

護摩木を書くのも必要。支え合いの場。ありがとうございますを一杯捧げたら、ありがとうございますが一杯返ってくるのは、当然。
特に、真の神さまの降り立ってくれた時に、ありがとうございますを捧げるというのは、真の神さまに届くから。大きく循環する。
一人で寂しく何億年祈っても、効果がない。どんな祈り方をしても、大したことがない。
でも、支え合いの中へありがとうございますを捧げたら、真の神さまへ届くから、効果は無限倍になる。

みんな、まだ、護摩木を書くのを習慣にしていないから、本当はよくない。毎日、少しずつ書くようにしていかないと。
支え合いのためにするの。しっかりと祈りながら護摩木を書いて、たまったらここへ納める。
やっぱり、それを日課にしていく方がいい。効果が全然違う。支え合いという意味では、それが必要。
自分一人で祈るというのだったら、別に護摩木なんか関係ないかもしれないけど、神さまに降り立ってもらう支え合いという意味だったら、
支え合いの中に自分を置かないと。お祈りも同じ。みんなが支え合いのお祈りをしているところへ入らないと損。
一人でどれだけ山の中にこもって、一人で祈っても効果はない。みんなと一緒にお祈りした方が、相乗効果が大きく出てくる。
祈り合いの中へ神さまが降り立つから。


(平成25年8月24日のお話 第2部@)