真のありがとうございます 

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 我という言葉の定義、我(われ)という風に言うと自分。真の自分、これは、真の我、真我。偽の自分は、偽りの自分、偽我。

真我とは何か?真我とは、一切の我のない無色透明の自由自在心の意識。本物の自分。
偽の我というのは何か。形を掴んだら、小さくなってしまう。一大循環の相象(すがた)を一瞬掴んだだけでも、小さい自分。
偽我の方になる本物ではない。本当の自由自在心は、一大循環の相象を掴まない。一瞬掴んだら、ものすごく小さくなる。
無限のスピードで循環する一大循環の相象、掴まないからこそ、大きく受け続けられる。
そのために、与え続けて、受け続けて、実感する。絶対形を掴んだら、小さい自分になる。偽の自分。偽我になる。

我には、色んな我がある。宇宙が自分と掴んでも、宇宙我。大きい自分は、大我という。
これが神さまと掴んで、神我というのでも、掴んだ自分は、偽物の我、偽我。虚の自分になる。
一大循環の相象ではなく、残像の虚の世界の我。残像を掴んでいるから。どんな掴み方をしてもそう。
だから、掴んだら偽の我。形を掴んだら偽の我、全部そう。虚の世界では、順番に残像を掴み続けて、
大きい我から小さい我、小我まで、どんどんどんどん堕ちて行って、数は無限に大きく積み重ねてしまう。沢山積み重ねる。

我を溜めたら、我の自分を掴んだら、一大循環の世界から虚の世界へ転落。これがまず一番大きい問題。
真の神さまから遠く離れてしまう。本当の自分、真の自分が自由自在心で、形を何も掴まない自分というのだけど、
でも一大循環の相象を与え続けて、受け続けて実感するのは、一大循環の相象が自分ということ。
一瞬掴んだ形ではないけど、一大循環の相象が本当の自分。自由自在な意識で、実感する自分。

自由自在心も自分だけど、一大循環の相象が本当の自分。何もない自分ではない。一大循環の相象そのものが、真の自分。
だから、神さまの全てが本当の自分。まずそれが根本で一番大事。そこから離れたら、偽の自分。
偽我になって、どんな我が積み重なっても小さい自分。無限に小さい自分になってしまうから、幸せから遠ざかるからダメ。

一大循環の流れを妨げるというけど、本当は妨げることは絶対不可能。
虚の世界に入ったから、虚の世界に転落したから、一大循環の相象を感じ取れないだけ。
必要なものを的確に与えてもらえなくなったというだけの話。一大循環の流れなんて、止めることも不可能だし、
虚の何かが邪魔して止めるわけにいかない。一大循環の相象は、そのままずっと永遠にある。変わらない。
ただ自分の受け方が、我を出すにつれて、受け取れなくなっていくだけの話。

我に力があるのではない。我にはなんの力もない。ただ、我になったら受け取れなくなっていっているだけの話。
無限に我を積んだら、必要なものが何も受けられなくなったというだけ。だから、もともとない我。
無い我をあると思っていたら、虚の世界になってしまう。

まず、真の自分をしっかりと思い返さないと。思い出さないとダメ。それで、真のプラスの言葉を駆使することが一番大事なこと。
言葉通りの自分になるから。また言葉通りに受け取れるから、真のプラスの言葉を駆使する自分というのを根本に絶対置くこと、
それが一番大事なこと。だから、虚の世界の過去の残像の言葉なんて本当は必要ない。ありがとうございます一言だけの方がいい。

我を消す祈りとはどんなことか、というのでも、真祈りと簡単に言うけど、
真祈りのありがとうございますがどういうものかというと、秘奥義のありがとうございますと同じ意味。途中の段階の祈りではダメ。
秘奥義のありがとうございますと真の真祈りのありがとうございますは同じ。常に、絶対の中心に立って、真の神さまを与え続ける。
それも全ての全てに対して、真の神さまを与え続ける。一大循環の相象をずーっと永遠に与え続ける。
これが真祈り、秘奥義のありがとうございます。

秘奥義の秘。秘かな。ここがやっぱり大事なこと。隠れているという意味もあるけど、必要なものを与えるの。
秘密の秘の右側、必要の必。必要なものを的確に与えないとダメ。一大循環の相象は、本当に必要なものだけを与える生き方。

ちょうど電気で考えたらわかる。発電所で発電して、途中送る時に、何万ボルトってある。それは直接つなげない。
いっぺんにパンクしてしまう。この世だったら200ボルトに変え、100ボルトに変えて使う。入れ子構造の仕組みなんて、無限億万ボルト。
それを順番に必要なところへ段階を降ろして、必要なだけを与えてくる。本当の必要なだけを与えてもらった時に、幸せを感じる。
お水を一杯飲みたいという時に、無限のお水を与えてもらったら、大洪水になる。大変な目に遭う。だから、沢山あっても与えない。
必要なだけに絞って、必要なだけを与える。

これは、やっぱり秘かなる与え方。絶対の中心から与えてもらうのは、無限に無限に大きい与え方。
でも、そのまま与えてこない。押し付けない。恩着せがましくもない。絶対に強制しない。
本当に静かに、淡々と与えるのでも、隠して隠して、自分の正体を隠して隠して、秘かに秘かに、必要なだけに絞り切って、
それだけを表に出してくる。そういう与え方。これは、もの凄い与え方。今何が必要かって、本当に必要性を感じ取れないと出来ない。

お茶を飲みたいと言っても、今どの温度のどういうお茶を飲みたいかを見抜かないと美味しいお茶は出せない。
ちょっと熱めがいい、ちょっとぬるめがいいって、その時で変わる。本当に見抜いて出すというのは、ものすごいこと。

だから、愛の心、祈りの心、与える心、一つ。愛するというのは、相手と一つになっている。
自分の全てを与え尽くすから一つになる。祈りも相手に与え続ける、祈り続けるから一つになる。どんなものも与え尽くす。
自分を、全てを与え尽くすから、相手と一つになるから、相手のことが全部わかる。
与え続けて、祈り続けて、愛し続けて、全てと一体化するから、何が必要かがわかって、本当に必要なだけを与えられる自分になってくる。

これは、真の神さまのし続けていること。それと同じ生き方を取るのが、真の自分。
ただ、真の神さまと比べたら、真の自分の生き方はまだ小さい。絶対の中心に立ったといっても、まだ絶対の奥まで行ってない。
末端に立っているだけかもしれないから、与え方がまだ小さい。それをどんどんどんどん与え続けることによって大きくなっていく。
真の神さまと一つに融け合っていって、大きくなる。

小さい我を消すのでも、やっぱり神さまとの交流がいる。与え尽くし合い。
交流して、神さまと一つになると、我が消え、大きい自分に戻れる。与える心と与える心は、プラスの交流が起こる。
プラスが増幅される。増幅するというのは、大きくなる、大きいプラスになるという意味。
これが求める心と求める心だったら、マイナスが増幅する。マイナスが大きくなる。与える心と求める心は、交流が起こらない。
常に、真の神さまと交流を図らないとダメ。

キリスト教でも、イエスさんの教えは、愛と許しの教え。裁きの教えではない。
新約聖書に説かれているイエスさんの教えは、愛と許しの教え。それは如何に神さまを愛するか。
だから、弟子に対する戒め、汝、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、まず主なる汝の神を愛せよ。
真の神さまを愛すること。真の神さまを愛することによって、神さまと一体化して、神さまの愛をもらう。
それが出来て初めて、隣人を愛することが出来る。これが第2の戒めになっている。


(平成25年8月17日のお話 第1部@)