真のありがとうございます 

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 この命を神さまに投げ出していったら、我を全部捧げ尽くしたら、真の神さま、本心の自分が、肉体の自分を使える。
高級な虚の世界の神さまも、必要なことに使える。だから、支え合いというのは、本当に必要なことをさせてもらわないと、支え合いにならない。
一大循環の相象がそう。本当に必要なものを的確に与え尽くすために、一人ではできないから、
無限の無限の天照大御神様が、全力を出し続けて働いて、初めて可能になる。

 だから、みんなが支え合って初めて、一人ひとりに必要なものを的確に与え続けられる。そのための支え合い。本当のすがたがそう。
だから、本心の自分は、そういう風にみんなを支えようとする。そしたら、肉体の自分も本心の自分の手足になるのだったら、
置かれた場で全体を支えようとしないとダメ。我を出したら孤立する。自分勝手なことをしてしまう。
だから、いつも全体を見ながら、何が必要かって見抜かないとダメ。

本心の智恵だったらわかっている。肉体の自分も、命を投げ出して、本心のままに生きようとするんだったら、
今置かれた場で、全体を見て、何が必要か見抜かないとダメ。必要なことだけをする。余計なことをしたらダメ。
余計なことは我が出て邪魔していること。本当に必要なことだけを的確にしないと、我が出ている。ここが大事。訓練がいる。
必要なことを見抜く。それも一瞬一瞬変化する。今この仕事って思ってしていても、次、別な仕事が目の前に来る。
その時もまた新たに、自由自在な心で、新たに新たに、本心の力を受けて解決していかないとダメ。

過去を掴んだら、我の自分。過去の経験・体験って言い出したら、我の自分。邪魔している。
邪魔するのだったら、循環を逆に妨げて、逆流を起こしている。我が消えていかない。増やしているだけ。
恩返しに、絶対奉仕に生きるというのは、我を消さないとダメ。本当に我を神さまに預けて行かないと。
我の自分を預けるのでも、本当に真の神さまに直接というのは、本心の自分でないと出来ない。

段階があるから、まず我の自分を本心の自分に捧げる。ここまで行けたら最高。それもできなかったら、守護霊さんに捧げる。
守護霊さんもわからなかったら、この世の誰か指導者に、この命捧げますから神さまのお役に立てて下さいって投げ出さないとダメ。
投げ出したら、その対象から助けが来る。我の自分以上の、別の大きい助けが降りてくる。プラスに使ってくれる。

だから、段階に応じて色んな捧げ方、与え尽し方がある。
でも、次から次へと出てくる我を片っ端から捧げ尽くすというのが無いと、我を出したままで終わってしまう。
せっかく消してもらうチャンスを、我を増やすような生き方に陥っていく。

とにかく我を少しでも消さないと、本心側に戻れない。我が少なくなったら本心側に戻れる。
本心が自分っていう立場に早く戻る、立てる。そしたら、真祈りを祈れる自分になる。
肉体も自由自在にコントロールして、祈らせる自分に、祈る自分に変えていける。
でも、それも自分が自由意志で選ばないと、これも不可能。我の自由意志を発揮したら、我を積み重ねていく。
我を消そうという自由意志が、本心の意志。

本心の意志が出て来て、我を消そうという生き方になったら、我の自分をどんどん本心側へ捧げなさいという風に強制的にでもしていく。
本心が我の全てを支配しないとダメ。支配するというのは、必要なものを支えて与えて、必要なことに適材適所に使いこなすのが支配。
支配の支は、支える。支えるというのは、必要なものを与えないといけない。必要なものだけを与える。
肉体をこの道具として使おうと思ったら、肉体に必要なものだけを与える。余計なものを絶対に与えない。
必要なものだけを与えて、支える。必要なことだけに使う。これが適材適所に配置すること。

本心の自分が肉体の自分を支配すると言ったら、必要なものだけを与えて、必要なことだけをさせること。そしたら、役に立つ。
どんな仕事をしても、必要なことだけをしたらスピード化する。余計なことをしたら、スピードが遅くなる。循環を邪魔する。
邪魔されただけ遅くなる。本心は、循環を速くするために、必要なことだけをさせる。余計なことをしたら邪魔して、スピード化しない。
遅くなるのは当たり前。だから、どんな仕事も必要なことだけしたら、10倍速くなる。それも楽に10倍の仕事ができる。

だから、常に本心の自分が肉体を必要なことに使わないとダメ。本当に我の自分を出した時は、過去のことばかり言って、
出来ないと言ったり、つまらないことをしないとって言ったり、とらわれが一杯になる。邪魔することを一杯する。
どうしてもそうなってしまう。我の自分がそう。我の自分は、ストップをかける働きだから。何を理由に言い訳してもダメ。
我の自分は、ストップをかけるのが役目。することなすこと全部ストップがかかる。だから、仕事が10分の1しかできない。
スピードが遅くなる。当たり前の話。

でも、本心の自分は、一大循環の流れをスピード化するのが目的。スピード化するのに必要なことだけをさせる。
無駄なことを一切させない。そこまで行ったら、10倍速になる。流す力が大きくなって我が消えていく。
そういう生き方を自分の自由意志で選ぼうとしないと、本心の自分をしっかり生きて、スピード化するお手伝いをして、
神さまのお手伝いに、絶対奉仕に生きるんだという風に決めたら、守護霊さん、守護神さんはもちろんのことだけど、
救済の神さま、高い神仏全部、本心の自分、一人の本心の自分と違う、他の本心の自分も応援する。
それで真の神さまも根本から応援して、力を添えてくる。自分が選んだらいいだけ。
本心の自分をしっかり生きようという風に選んだら、助けてもらえる。

でも一瞬、我の自分を生きようとしたら、反対になる。助けが全然ない。我を積む一方になる。
これはもう自由意志で選んだ通りになるから、仕方がない。神さまは、強制力を絶対に使わない。
だから、自分が我を生きるか、本心を生きるか、これは絶対自分が決めないとダメ。
本心を生きる、真祈りを祈ると決めたら、本心をしっかり生きて、真祈りを祈れるように変えてくる。助けてくる。

これは自分が自由意志で選ぶだけで、必ずそうしてくれる。一瞬一瞬選ばないとダメ。
一瞬一瞬選ばないと、我が出てきた時に負ける。我が出た時に、真剣勝負になる。新たな我が出てきた時に、消されるために出て来てもそう。
この我の自分を生きたら、我を積み重ねる、お祈りを忘れる。

だから、我を消すためにも、一瞬々々真剣勝負で祈り言葉を唱えようとした方がいい。祈り言葉を唱えた時は、本心側に立つ。
まだ本心の自分の真祈りにはいかなくても、本心の自分に戻って真祈りを祈りたいという意思表示。
ありがとうございますを肉体の自分が唱えることは、そういう意思表示をしたことになる。だから、助けてもらう。
本当の真祈りの力がなくてもいい。神さまの助けが必要なんだという意思表示。

それで、ありがとうございますで、真の神さまを呼ぶ。本心の自分を呼んでいる。だから、大きい助けを受けて我を消してくれる。
我に負けないようにしてくれる。そして、本心の自分をしっかり生きられるように、大きく助けてくれる。
それで我のない自分になって、本心の自分に戻って、真祈りを祈れるようになったら、そこが出発点。
本当の虚の世界を消す、大きい働きをする、大菩薩行をする。その時は肉体の自分もお祈り三昧。

祈りは、本当に幸せ一杯、楽しさ一杯でないと祈りではない。なぜか?本当の真の神さまの愛の働きがわかったら、幸せそのもの。
幸せだから祈る。法然さんが南無阿弥陀仏を唱えた。法然さんも、唱えるのは、阿弥陀様の本当の慈悲の深さに、感涙するの。
心が、感極まって涙が溢れるぐらいの気持ちになる。
そしたら、阿弥陀様、阿弥陀様って、本当の永遠の恋人みたいな感じで、惚れ惚れと念仏を唱える。
南無阿弥陀仏と唱えるコツは、惚れ惚れと念仏を唱えなさいと教えている。そしたら、南無阿弥陀仏が本物になる。
阿弥陀様を感じ取る祈りに変わる。

ありがとうございますを唱えるのも同じ。阿弥陀様ぐらいではない。真の神さまは、その無限の無限倍。
本当の真の神さまの絶対の愛に少しでも触れたら、もう感極まって無条件の幸せで一杯になって祈らないとダメ。

だから、幸せだから祈る。祈らずにおられなくなる。本当の神さまのお手伝い。だから神さまを呼び続けるのは当たり前の話。
ありがとうございますを寝ても覚めても24時間ぶっ続けに、真の神さまを呼び続ける、思い続ける。感じ続けないと。
そこまで行かないと神さまを選んだことにはならない。

真の神さまを選ぶというのは、しっかりと選ぶこと。選んでいないというのは、まだ中途半端に見ている。
真の神さまを本当に見ていない。あるかないかわからないっていうぐらいに、疑っている。
本当に真の神さまだけって、本当の愛のすがただけって信じられたら、ありがとうございますの一言を、選び続ける。
選び続けないと損をする。選び続ける自分は本心の自分。
我の自分では本当は無理だけど、本心の自分を拝み出してもらって、我を少なくしてもらって、選べるようにしてもらっているのに、
選ばなかったら、自分の怠慢。自由意志を発揮してない。まず、我を大きく消してもらっている。本心を拝み出してもらっている。
選べるように助けてもらっている。それで選ばないのは自分の怠慢。

だから一瞬一瞬、ありがとうございますを、何が何でも選び続けるのがいい。それが本当の真祈りに近づく道。


(平成25年8月10日のお話 第1部A)