真のありがとうございます 

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 お祈りは、虚の世界のお祈りもある。ピンからキリまである。真祈りは一つ。真祈りと祈りとは違う。
真祈りというのが、真の神さまの祈り。真の神さまの愛の働き。真の神さまの与え尽くすすがた。
一大循環の相象(すがた)で必要なものを的確に与え尽す愛の働き、これが真祈り。
これがいつも絶対の中心から循環して無限のスピードで与え続けてくるすがたで現れてる。
だから一大循環の相象そのものが真祈り。虚の世界は過去を掴んで、これが自分って我を積み重ねる。
我を積み重ねた分だけ、一大循環の流れを妨げて
虚の世界のすがたって、必要なものが即座に与えてもらえないすがたになっていっているだけ我が多いほどそう
ストップかけて、必要なものを与えてもらうのが遅くなってる。

本当の自分は、一切の我のない本当に無色透明の自由自在心の神さまの意識。この本当の自分、本心の自分の祈りに、段階がある。
一大循環の相象、新たなる無限の無限の入れ子構造の天照大御神今ここに在します、って現れる、これをどう捉えるか。捉え方に差がある。
一番最初は、定義のありがとうございます。表面をちょっと捉えている。
真義になったら、天照大御神さまの無限の無限のチャンネルを捉えている。本義になって初めて、天照大御神様を直接捉える。
奥義になって初めて、入れ子構造の天照大御神様を捉える。
秘奥義になったら、初めて絶対の中心に立って、本当の一大循環の相象を与え尽くす生き方を捉える。

真祈りに段階がある。本心の自分が立つ立場が全部違うから、本心の自分に戻ったからと言っても、祈り方に無限の段階がある。
絶対の中心にまで戻らないと、秘奥義のありがとうございますは、唱えていない。
真の神さまの祈りは、秘奥義のありがとうございますより更に奥。絶対の中心をも含めた、大きい与え方をし続けている。

だから、本心の自分に戻って、そこが真祈りの出発点。どれだけ大きく真の神さまを与え続けて、自分の中を大きく貫流させるか。
真の神さまが大きく自分の中を流れないとダメ。与え続けることによって、真の神さまが自分の中を流れる。通り抜ける。
それで全部受け続けて、味わい続ける。これが本当の本心の自分の幸せな生き方。
だから、与え続けないと、神さまの真祈りと正反対。本心の自分は、真の神さまと同じように与え続けることによって真祈りに入る。

ただ与え方に、小さい与え方から大きい与え方まで無限の段階がある。これをどんどん大きくしていかないとダメ。
だから、祈り続ける。真の自分、本心の自分は、祈り言葉をしっかりと唱えて祈らないと大きくなれない。それが仕事。
真の神さまを与え続ける、これが本心の自分の本当の仕事。大きい働き、役目、それだけ。まず根本がそこにある。

次に、我の自分がやっぱり沢山ある。最初は大きくちょっと掴んだのだったら、大きい高い我の自分。
どんどん残像を掴んで掴んで、掴み続けて小さくなっていったら、小さい我の自分が無限にある。
肉体が自分って掴んでも、小さい我の自分。この我の自分を主張したら、祈りから遠く離れる。邪魔し続ける。

だから我を捨てないとダメ。ちょうどスサノオノミコトがわがままし放題で、暴れまくったら、火山が噴煙を上げるようにして、
太陽を覆い隠すように天照大御神を覆い隠してしまったというように、本心の自分を隠してしまう。

本心の自分が我の自分をしっかりと支配するというのが大事。わがままを許したらダメ。
無限の段階の全ての我の自分を、本心の自分が全部絶対服従させないとダメ。わがまま言うのだったら消すというまでいかないと。
勝手なことをするのだったら全部消しきるって、ここまで行かないとダメ。それで、必要な絶対奉仕に生きる、我の自分だけを残す。
そしたら、肉体の自分をどう使うか。自分が肉体だったらダメ。我の自分を主張しているから。
本心の自分が、道具として、小さい一つの道具として、肉体を絶対服従させて、自由自在に使わないとダメ。

そしたら、肉体の自分を訓練しないと。本心の自分がその働きを補佐して、守護神さん守護霊さんも応援して、肉体の自分を鍛えぬく。
鍛えるというのは、必要なものだけを与えて、色んな能力を発揮できるように訓練しないとダメ。
そしたら、食べ物一つでも、必要なものだけを食べる。美味しいものを食べたり、欲しいものを食べたり、贅沢なものを食べたらダメ。
徹底して断食させないとダメ。必要なものだけに絞り込ませないと、我がのさばる。

だから色んな苦行は、全部我を抑えるため。肉体の自分が断食したら苦しい。
でも、本心の自分が肉体を支配するために断食させるのは、苦しくない。本心の自分がするのだったら、絶対服従させられる。
100日断食しても大丈夫。できる。断睡、断眠の苦行でもできる。心臓が止まっても動かせる。ここまで行く。

本心の自分が、肉体の自分を鍛える時は、色んな苦行を課せて、訓練して、絶対文句を言わせないようにしてしまう。
そうなったら、肉体も大事な道具になる。肉体の自分を神さま、本心に捧げて、どうぞこの命をお使い下さいって投げ出した時、我が無い。
我が無い時は、一大循環の流れを妨げていない。神さまの祈り、本心の祈りのままに動く。
だから、必要なことを的確に出来るように変えてもらう。祈り言葉を唱えてなくても、我を捧げて捨て切ったらそう。

本心の祈りというのは、真の神さまを与え続けて、虚の世界を消しきる、我を全て消しきるのが目的。
本心の自分の祈りは、虚の世界の全てを消しきるため。だから、大菩薩行として、真祈りを祈る。小さい菩薩として祈るのではない。
大菩薩行として、祈る。全てを菩薩行に変えるために祈る。そしたら、祈らないといけない。祈らないと力が出ない。何もできない。
祈るから与え続けて、菩薩行になる。それを肉体の自分まで、もし降ろしてきたら、肉体は祈りだけが仕事。
本心の自分と一つになって、祈り続けるのが本当の仕事になる。肉体の自分が大菩薩行のための祈りをする。この世の仕事はしない。
祈りだけが本物の仕事。

だから24時間、寝ても覚めても祈り続けている。肉体の自分が、寝ているときも祈っている。ちゃんと意識がある。これが本当の祈り。
ここまでいけるかどうか。みんな祈りが自分の本当の使命って、役目ってそこまで行ってない。
まだ祈りよりも他のことしようとしているから、祈りながら何でもできるまで、行かない。

祈りだけになったら答えが先に降りてくるから、計算問題に答えを出すのでも、計算する必要がない。答えがぱっと出る。
どうしたらいいかって全部、模型が、地図がちゃんと出来上がっているから、それをぱっと当てはめるだけ。
どこか計算間違いを探すのでも、一瞬にちゃんとわかる。祈っているからわかっている。
本心の智恵・力が、全部祈っている自分と波があって降りてくるから、それも新たに新たに、神さまの智恵が降りたら、
肉体の自分が何もしなくても答えだけがさっと降りる。

ここまで行ったら、肉体の自分が祈りだけをする。必要だったら、どんなことにでも肉体を使う。どんな重たいものでも持ち上げる。
どんな能力でも必要だったら発揮する。習ったことがないことも全部できる。祈り言葉を唱えていたらそうなる。祈り言葉が神さまそのもの。
神さまを呼び続けて、神さまをそこに呼び出して降ろしているから、答えがさっと出る。

本当は、ここまで目指さないと。お祈りする人が少ないのだから、この世の仕事をする人は一杯いても、お祈りする人は僅か。
本当に数えるほどしかいないのだから、自分はお祈りだけでもいい。
祈りだけを目指して、それに徹底するまで、努力するのが必要。そして、祈れるようになったら、他のことが何も出来ないのかといったら、違う。
必要だったら何でもできる。どんな能力もさっと出る。智恵も力も湧いてくる。

本当にそう。祈りだけを祈る自分だったら、どんな問題でも一瞬に解決する。どんな病気でもさっと治せるし、死んだ人を蘇らせる。
瞬間移動もできる。どんな智恵・能力も出てくる。そんな自分を目指すのだったら、本心側に戻って、祈り続けて、
肉体も祈りだけにコントロールしてくるのが、大菩薩行をするために必要になる。

だから、我を消す祈りって、お祈りを助ける本当の働きになる。我を一つ一つ消していくだけでも、お祈りの助け。
本心の与えるお祈りまで行かなくても、邪魔しないお祈り。邪魔しないというのもお祈り。我を出さない、これがお祈り。
これが自分って掴んだ小さい自分が全部我。だから、その我を神さまに捧げないといけない。
色んな自分が出てきたら瞬間に、この命、神さまに捧げます、どうかお使いくださいって、瞬間々々がそう。
一回捧げたから、それでいいのかというと、違う。我は、次から次へと新しい我が出てくる。無限に溜めた我は、一回一回出てくる。
その度に、この命神さまの御用にお使いくださいって投げ出さないと、やっぱり我を出したことになる。
 


(平成25年8月10日のお話 第1部@)