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 Q:「自分の祈りが真祈りになっているかどうかっていうのは、どう判断できるのでしょうか」

 

A:真祈りは本心の自分の祈り。我の自分の祈りではない。自分が本心側に立っているかどうか、これを点検する。
まず、真の神さまが真の自分という、本心の自分の16項目をいつも言葉にして思い返さないと、本心側に立てない。
まず、@真のプラスの言葉を駆使する自分。虚の言葉を使ったらダメ。真のプラスの言葉だけを駆使する自分。これが本心の自分。
真のプラスの言葉を駆使している自分って、いつも言わないと。

A一切の我のない無色透明の自分。我というのは、形を掴んだら我。これが自分、肉体が自分、魂が自分、形を掴んだら我になる。
過去を掴んだら我になる。一切の我のない、過去を一切掴まない、無色透明の自分って断定しないと。

B元から真の神さまと一体の悟った自分。元から悟った自分と断定しないと、本心側に立ってないことになる。

C常に全体を支える自分。全体って大きい。虚の世界の全体と違う。真実の世界全体。
支えるというのは、真の神さまを与え続けないと支えられない。絶対の中心から真の神さまの全てを与え続けてこそ、全体を支える。
それくらい大きい気持ちがいる。常に、全体を支える自分。これが真の自分って言わないと。

D全てを適材適所に配置する自分。全てを生かさないと。全てを生かすというのは、全てにプラスを与えて、力を与えないと、添えないとダメ。
これも本心の自分の働くすがた。

E一切の責任を自己に帰す総責任者の自分。一切のマイナスは自分に持ってこないとマイナスも消せない。
それよりも、全てに最高のプラスを与え続ける責任がある。真の神さまを与え続けてこそ、プラスを与える責任を果たしたことになる。
マイナスの責任よりも、プラスを与え続ける責任の方が大きい。一切の責任、プラスを与える責任を自分に持ってくること。祈るしかない。

F永遠の自分。肉体を掴んだら、永遠の自分にならない。心を小さくして、儚い虚しい自分になってしまう。
だから、永遠の自分って断定すること。心がどれだけ明るく大きくなるか。

G完全円満、完璧な自分。不完全な自分ではない。完全円満完璧というのも、形としてではない。神さまの完璧は、流動体。
無限のスピードで動き回る流動体。全体と一つになっている流動体。同じ完璧でも本物の完璧さ。

H無限に無限に大きい無限大の自分。小さくない、小さくない。地球なんて一点くらい。
神さまの世界は、入れ子構造だし、無限に無限に大きいもの。だから、本当の意味の、無限大の自分。

I一瞬一瞬、新たな自分。一切過去は無関係。常に、絶対の中心から現れる、無限分の1秒で新たに置き換わる新たな自分。
一切過去を相手にしない。新たな自分、新たな自分。

J絶対の中心から、無限に無限に輝いた自分。一番大きい自分。輝きというのは、光源の進軍という意味。光の流れではない。
入れ子構造の天照大御神様の雄々しい進軍の姿。こういう大きい自分。

K全ての全てと一体の、全てが一つの全一、対立の無い絶対の自分。だから、全部自分。全部自分と言うのは、全て真の神さまと言う意味。

L全知全能の無限力の自分。自己限定はいらない。真の自分は、全知全能の無限力。だから、力を発揮できるはず。
でも、言葉にしないと出てこない。全知全能と言ったら高慢ということではない。言わないのが卑下慢。
全知全能無限力って断定しないと、本当の謙虚とは言えない。

M自由自在な自分。一切の縛りがない。絶対縛られない。自分が自由自在に何でもできる。人のせいにしたらダメ。他のせいにしたらダメ。
何にも自分を縛るものは無い。自分の自由意思を発揮するだけでいい。だから、真祈りを祈るって決めたら祈れる。
何にも妨害されることがない。だから、邪魔されることもない。全部自分が決めること。これが自由自在な自分。

N微塵も求める心の無い、必要な物を的確に与え尽くす愛の自分。微塵も求める心の無いというのが、正しい。
少しでも求める心があったら、我の自分になる。だから、与え尽くすだけ。与えっぱなしの自分。
必要な物を的確に与え尽くす、一大循環の相象(すがた)をとる自分。

O無条件の幸せ、無条件の喜び、無条件の安らぎが湧き上がる自分。条件の付かない、一切の条件を付けない、本物の幸せが湧き上がる自分。
これをやっぱり言葉にしないと、本心の自分に立てない。

最初の、真のプラスの言葉を駆使する自分って、本当に自由自在に使いこなす自分が本心側に立った自分。そこから出発する。
そして、真祈りを祈り続ける。真の神さまを全てに対して与え続ける。自分が本心側に立ったら、全てみんな本心の自分ってわかる。
あの人が虚の世界に堕ちて迷って苦しんでいるって、こんなことは言わない。みんな本心って言える。
みんな我の無い、無色透明の自由自在心の、みんな本心って言う。本心のみんなに真の神さまを与え続ける。みんなが与え尽くし合う。
だから、みんなが支え合っている。それが完璧な相象。

だから、本心の自分に立っているか、業想念の我の自分になっているか、いろんな区別の仕方が一杯あっても、
業想念の側に立って自分のことは言葉にしない方がいい。本心の自分を言葉にするだけが正しい。
我の自分は、求める心がある、求める心と言っただけで業想念になってしまう。反対。本心の自分だけを言葉にすればいい。
だから、16項目をしっかりと繰り返して自分を褒め称えること。
そしたら、本心側に立った自分が、ありがとうございますを唱えていたら真祈りになっている。本心側の自分の祈りが真祈り。
大きい力がある。


(平成25年8月3日のお話F)