真のありがとうございます 

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例えば、新幹線に乗るとする。東京行きに乗ったら、東京駅って定めて乗ったら、それでいいのだけど、
途中下車したいと言ったら、どれだけ迷惑をかけるか?途中で、例えば、お腹が痛くなった、病院に行きたいから、
途中で降ろしてと言ったら、新幹線を止めないといけない。途中で降ろしてもらうのでも、どれだけ迷惑をかけるかわからない。
一緒に乗っている大勢のお客さんもいる。新幹線の会社だけではなく、お客さんにも迷惑をかける。どれだけ大きい迷惑をかけるかわからない。

お祈りも同じ。ありがとうございますと唱えるのは、本当の悟りを開くため。自分勝手なことで途中下車できない。
だから、目的をしっかり定めるのが大事。本心の自分に本当に戻りきる。悟りを本当に開く。本当に神さまと一体化するって。
本当に根本の目的を定めたら、中途半端なお祈りではない。

でも、中途半端で逆に戻ろうとする人がある。東京行きに乗ったのに、福岡に行きたいって。途中下車くらいではない。
ここが困る。折角、東京行きって決めたから、乗せて行ってあげようと思っているのに、反対に福岡に行けなんて言われたらどうなる?
止めて降ろすだけではすまない。途中で行方不明になったら大変だから、後々まで面倒を見る。どれだけ大変か。
そういう意味で、目的をしっかり定めること。ありがとうございますの目的を。そしたら、中途半端でなくなる。まず、それが一番大事なこと。

もう常に、本心の自分を生きていたら、苦しみはない。もし、苦しみがあるとしたら、思いの心、我の心を生きている時だけ。
思いの心が逆流になるから、光に触れても跳ね飛ばされるような苦しみを味わう。本心の自分を生きようとしたら、
苦しみなく我を消し続けてもらえる。早く本心に戻れるように、助け続けてもらえる。

だから、常に本心の自分を生きようとすること。本心の自分を生きようとする、本心の自分を忘れないこと。
我の自分をどうのこうのすることではない。我を消そうと思ってもだめ。本心の自分を生きるかどうか、生きようとするかどうか。
これだけで決まる。だから、本心の自分を忘れないように、みんな支え合っている。本心の自分を生きようとするすがたを見せ合っている。
支え合いのすがたって、そういう意味。しっかりと本心の自分を生きようとするすがたが、支え合いのすがただから、
お互いがそれを行動に表して見せ合っている。それで、忘れないようにしようとしている。

常に支え合い。これを目指す。恩返しの生き方。そしたら、絶対大丈夫。
お祈りでも、一人で座ってお祈りするのは、お祈りと違う。みんなと一緒に支え合って祈る祈りが、お祈り。
それも、行動化するお祈りが本物。必要なことをしながら祈っているのが本物。

お腹がすいたからといって、祈っただけでお腹が満腹になる?そんなことない。お腹がすいたら、祈りながら食べたらいい。
どこかへ行くのでも、時間に間に合うように、走りながらでも行かなければならない。
座っていたら、ぱっと向こうへ行けるかというと、そんなことはない。

祈りというのは、常に、行動を伴ってこないと嘘。必要な行動を伴ってくる。必要な働きが出てくる。これが本当のお祈り。
必要なものを的確に与え尽くしていって、初めて、神さまの働き、お祈りになると言える。

祈りは言葉ではない。神さまの愛の働きそのもの、行動そのものが、お祈り。
だから、常に行動化して、必要な物を的確に与え尽くして、必要なことをするのが、お祈り。
これを支え合いのすがたの中で、しっかりと身に付けて行ったら、苦しみなく本心に戻る。

だから、本心の自分を生きようとする、お互いが助け合って生きようとする、これだけが全て。
そしたら、誰にも迷惑をかけない。神さまにも迷惑をかけない。人にも迷惑をかけずに、苦しみは、痛みは自然に消える。
肩代わりも何もいらない。大きい光の流れの中へ流し込んだら、どんなものでも大きい流れへ流し込んで、大きく拡散させたら、
すっと消える。固めたまま残すから、それを身に受けたら痛む。苦しむ。

一大循環の流れの中へ投げ入れる、これは恩返しの生き方。一大循環の相象をとるというのは、
支え合いのすがたがあったらできる。一人でも多く支え合いの中の輪へ取り込まないと。
一人でも多くが、支え合いのすがたをとったら、大きい力が相乗効果を起こす。


(平成25年7月27日のお話 第2部)